せいすけ みぞ
清助首かけ溝
(峰山町二箇)
■清助首かけ溝の由来(「五箇村郷土誌」から)
上田清助は苗代(なわしろ)の人。分家絶ゆ。ニ箇八幡橋の傍より東西(北東の誤りか)に通じ苗代に至る溝あり、清助溝と称す。清助、資性剛毅(しせいごうき)、夙(つと)に苗代に灌漑の便よろしからざるを悲しみ、此の溝を興(おこ)さんことを二箇村内に謀る。衆議、地の高低、水の来(きた)らざるを論じて賛せず。清助固くとりて動ぜず。「成らずんば首を渡すべし。」とて、独力これに当たり、夜、妻と共に提灯(ちょうちん)の明りを彼此(ひし)にかかげて実測し、遂にその可能なるを断じ、村内十五歳より六十歳までの者悉(ことごと)く夫役(ぶやく)に就き溝を開鑿(かいさく)、遂に完成、大いに民の便を開く。俗に「首かけ溝」という。文政十二年丑(1829)二月二十七日没。戒名白翁孤雲信士とあり。苗代日吉神社石段に上田清助の銘あり。彼、これ義侠。常に食客を養いしという。
(注、「中郡誌稿」には、池田清助、子孫京都にあり……という。上田の誤りか)

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