吉原山城
(峰山町・権現山)
嘉慶2年(1388)守護一色詮範は、吉原山祇山(やまずみやま)に初めて山城を築いた。
切崖や堀割の上に平坦地を作り、柵をめぐらし、木戸を構えた。
山頂を本丸と定め、西丸や、三段の砦等を設け、守りを固めた。
天正10年(1582年)、細川興元(忠興の弟)が一色氏の吉原城を攻め陥し、一色家滅亡する。
本丸に御陣屋を建て、二の丸、三の丸をおき、寺谷の東(今の上町)に市街地を開いて、嶺山と名付けた。
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いで戦功を上げた細川忠興は、豊前国中津(大分県)へ移転される。興元も忠興に従って豊前中津に行く。(その後、常陸の谷田部藩へ)
信濃飯田(9万石)の京極高知は、秀吉に仕えていたが、関ヶ原の役で東軍に属して、戦後その功によって丹後田辺12万3200石を与えられた。
のち宮津に居城を移す。
高知の妹は、秀吉の側室になっている。
元和8年(1622)、高知の死後、その遺命によって、丹後国は宮津藩(7万8,175石)、田辺藩(3万5千石)、峰山藩(1万石)、天領の四つに分割され、峰山藩は、京極高通に分与される。
京極高通は近江朽木に朽木宣綱の二男として生まれるが、京極高知の養子となり、3千石の秀忠の小姓であった。分知された1万石と併せて、1万3千石の所領となる。
京極高吉─┬─高次(出雲松江藩、のち讃岐丸亀藩)
└─高知─┬─高広(丹後宮津藩)──改易
├─高三(丹後田辺藩)──転封(但馬豊岡藩)
└─高通(丹後峰山藩)
元和10年(1624)京極高通は城下町をつくり、峯山町と改称した。
城砦の必要がなくなり山城を廃して、南麓に藩主の居館(御陣屋)、御蔵、表門、侍屋敷、御粗長屋等をつくった。
吉原山は、京極氏が山頂に蔵王権現を祀っていたことから、権現山と呼ばれるようになった。